雨男乾さん 雨の話が最初である。私にはどうしても雨がつきまとうようである。案の定、伊勢を出るとき小雨が降っていた。昼前から降り出す予報であったが・・・梅雨だからしかたがないと自分に言い聞かせ駅まで歩いた。そして、四国に着いたら晴れてるから傘は絶対使わないと鞄の奥にしまい込み近鉄に乗った。瀬戸内上空まで雲が一面に広がっていたが、松山空港は陽が差していてホッとしたものである。お祭り準備中

最初の訪問地、愛媛県南宇和郡城辺町僧都への始まりである。昨年、僧都中学校1年生岩上大樹くんから伊勢踊りについての問い合わせがあり交流が始まった。学校が夏休みにはいるまでに訪問したいと思い急遽、僧都中学校にお願いをしたところ快く引き受けていただき今回の訪問が実現した。

 さあ僧都への旅を急ごう。松山を経由して宇和島行きの列車に乗った。途中、栗の木がたくさん植林されている所があり、手を伸ばせば届くところまで枝が伸びている。この地は栗の産地なのかと辺りを見渡して考えていた。また、柑橘類の木が山の頂上付近まで植林されていて作業している風景がかいま見られた。テレビで放映されていたミカンのCMとだぶって、さすが愛媛県だと納得していた。


お化粧をして踊る また高台を走っている列車からは時折、眼下に海が見え隠れして、山との対比に風情があり飽きのこない予讃線である。宇和島までの1時間余を子供みたいにキョロキョロ眺めていたせいか疲れてきた。首の運動をしている間に終着駅宇和島の声に促されてホームに降り立った。

 宇和島からは宇和海に沿って走る爽快な国道56号線の走行である。途中何度か車を停めて景色に見とれていた。僧都中学校の吉本浩先生との待ち合わせ場所、御荘町に着き、先生の案内で僧都に向かった。僧都川に沿って景色の良い県道46号線を走っていく、途中お城の建物の山出温泉、僧都中学校を通り、僧都の集会所に着いた。すでに、僧都中学校の生徒および松浦校長先生はじめ先生方、僧都伊勢踊り保存会会長の岡崎寛氏が待っていた。
 一通りの挨拶をすませ、本題の伊勢踊りについての話に入っていった。連絡協議会の資料から伊勢踊りを全国的に見てみると東北から九州まで分布しているが、四国地方、特に瀬戸内側、愛媛県に多いことが分かる。どうして愛媛県に多いのか、また伊勢踊りの保存継承等について質問させていただいた。


歴史ある着物  岡崎氏より、伊勢踊りは慶長14年(1614)四国に入り、土佐播多地方により宇和島幡を経て僧都地区に入ったが、現在残っているのは、2〜3地区に継承されている。
 僧都の伊勢踊りは、享保の頃(1720)僧都の法印瑞照が伊勢から習ってきて教えたとの言い伝えがある。と僧都に伝わる話を教えていただいた。
上記の答えはなかなか見つからなかったが、いろいろな仮説を見いだした。その一つが海路の影響である。太平洋よりも瀬戸内の方が通行量は、はるかに多かったにちがいない。また、上方より物資を運ぶ北前船は瀬戸内を通り日本海へ繰り出していった。物の移動とともに文化も移動していったと考えられる。

集合写真 また、江戸時代に爆発的に流行ったお陰まいりも四国八十八カ所参りと相乗効果で瀬戸内側の陸地を歩いたのでないだろうかと仮説を立てた。
 伊勢踊りの形態としては、踊りは男の子に限られ6人が女の子のように化粧して、扇と幣を持ち、太鼓、笛、鼓の調子に合わせた伊勢踊りの唄で踊る。


化粧をして準備をしているところ  僧都に伝わる伊勢踊りのビデオを見せていただいた。男の子の顔には白粉を塗り、麻(私達には麻に見えた)で作られた着物を着て踊るのである。昔から男の子の参加であったが、近年過疎化が進み男の子の少ないときには女の子にも声がかかるそうである。昔は11月の卯の日におこなわれていたが、近年11月3日の南宇和郡統一地方祭の日に若宮神社の拝殿で奉納されている。卯は子供に多く恵まれ子孫繁栄のために卯の日に行われていたと古老より聞いているそうである。

 現在の衣装は昔からの衣装を参考に京都で製作された物であるが、昔からの衣装が保存されていて見せていただくことができた。かなり痛みがひどくいたるところ自然とすり切れているような感じで年代物の衣装であった。僧都地区には法印瑞照が伝えたと言われているが、衣装をじっと見ていると秋田県八郎潟町で説明を受けた願人坊主のことを思い出した。衣装の古さゆえ頭に浮かんだのかも知れないが、伝えたのは諸国を歩いた願人坊主ではないだろうかと思った。

みんなで踊る そこで、一つ提案をさせていただいた。四国を横半分に線を引き瀬戸内側、太平洋側に分け、伊勢踊りあるいは伊勢音頭を例に取り分布調査をしたら文化の伝達方法等が分かるのではないかと提案し、僧都中学校の生徒および先生のみなさんに大きな宿題をお願いした。もちろん私も宿題を伊勢に持ち帰ることとした。
 僧都中学校に宿題の提出のこともあり、再会を約束して僧都をあとにした。





一人で踊る 城が見える。
 町が見える。
 山が町に迫ってきているように見える。
 昨日は気づかなかった宇和島がよく見える。
 
 宇和島は伊達藩10万石の城下町である。文禄4年(1595)、藤堂高虎が領主となり、丸串城を改築し、この地に本格的な城下町になったといわれている。慶長19年(1614)には仙台藩・伊達政宗の長庶子、伊達秀宗が宇和島藩10万石を拝領した。(宇和島市概要参考)藤堂高虎は慶長13年(1608)に津城主になっている。なぜか三重県とはご縁がありそうな気がするではないか。

今日は香川県木田郡三木町への訪問であるが、前日、西条市の人から電話が入り、途中下車してお会いすることとした。昨年伊勢神宮外宮神楽殿竣功奉祝行事西条だんじり来勢のお礼を述べ1時間ほどで西条をあとにし、高松行きの列車に乗り込んだ。
 途中、雲が出て天気の心配をしたが高松に着く頃には良くなっていた。高松駅の改修工事は数年前よりおこなわれていて、駅の前には大きなホテルが開業していた。ホテルを見て約三十年前、宇高連絡船で訪ねたことを思い出した。当時、駅から大きな連絡船が見えた記憶が懐かしく重なりあった。
 駅および周辺は改修工事が続いているが、構内のコインロッカーの数が少なく申し訳程度に改札口前に設置されている。また手荷物預かり所などは休日が休みで、たくさん手荷物を持った若い人たちがコインロッカー等を探しに走り回っていた。外観にとらわれ、お客に対する本来のサービスが忘れられているように思われた。 

 高松駅から高松築港駅へと歩いた。高松築港駅は玉藻公園(高松城址)を借景にしてホームがあり暑くても堀と緑の木々を見ていると涼しさを感じる駅である。高松は天正16年(1588)生駒親正が玉藻浦に居城を築き高松城と名付けたことに由来し、生駒家4代54年、松平家11代228年の城下町として栄えた。市内には日本三名園にも勝るとも劣らない栗林公園があり、北東部には屋根の形をした屋島がある。高松港の沖合には桃太郎の舞台といわれる鬼ヶ島(女木島)がある。

 さて、琴電長尾行列車の発車の時間である。多田直記氏に会いに三木町へと向かった。昨年は、工事をしていた高速道路が完成し車が軽快に走っている。またこの列車の中でも辺りをキョロキョロ眺め、例の運動をしているうちに池戸に着いた。多田家まで歩きなれた路ではあるが間違って他人の家に行ってしまった。何度か迷ったが無事、多田家に着くことができた。

果実酒でよう乾さん。多田氏とは里帰り伊勢音頭全国大会そして讃岐伊勢音頭の話に花が咲いた。讃岐地方に伝わる文化のひとつの伊勢音頭を何とか残す方法を考え近辺を探されたそうです。現在、讃岐伊勢音頭を唄える人は、ほとんどいないのではないかと切実に話をされた。
話の途中で多田氏自家製の果実酒をいただいた。アルコールに弱い私は少し酔っぱらったような気分がしてきた。 

 しかし、美味しい。少しアルコールが入り、讃岐の民謡および伊勢音頭から派生したと思われる唄の話になり、これからも近辺を探しますとなったが、氏との話の中で讃岐地方にも伊勢音頭あるいは伊勢音頭より派生した唄等が数多く残っているものと確信をした。

 時間との関係であまり話はできなかったが、秋の再会を約束し次の訪問地へ向かった。

全国伊勢音頭連絡協議会
運営部 乾 勉