広義の伊勢音頭は、狭義の伊勢音頭に伊勢踊り間の山節
河崎音頭古市音頭などを加えたものを総称することとする。
1、伊勢踊り
 さて、伊勢踊りについてですが、この踊りは風流踊りの場合、神送りの場合盆踊りの場合、座敷踊りの場合と種々あり、伊勢音頭と関係を見てみると慶長19年(1614)に、伊勢の国より始まり東海、近畿、中国、四国、九州に まで広がった神送りの踊りと座敷踊りとして延宝の頃、江戸で流行った踊りである。延宝(1673〜1681)の伊勢踊りについては「嬉遊笑覧」巻五の 中に「伊勢踊りは伊勢音頭にて踊るなり」とある。「紫の一本」にも「当世風 流伊勢音頭云々」と記述しているが、当時の歌詞と文政頃の歌詞とは差があり すぎ直接的な関連はあまりなさそうである。しかし、慶長19年(1614) に流行した伊勢踊りの資料が、高知県は土佐神社蔵の「おいせ様踊り」の書の 中に、当時唄われた歌詞が記載されている。この歌詞とほぼ同じ歌詞でかつ、 七五調にて整理され、昭和初期まで唄われた事実が、昭和10年刊「伊勢音頭 歌詞集」畑嘉門著に、長唄の部「伊勢踊りの唄」として載せられている。この 様なことから伊勢音頭とは全く無関係でないので伊勢踊りを広義の伊勢音頭に 入れる。

 2、間の山節  

 間の山節で、一説には奈良時代に行基と言う高僧より比久尼が唄を教えられ て唄いだしたのが始まりで、元亀天正の頃も盛んに唄われていたが、いつの頃 か尼僧姿が伊勢の地に不似合いと言うことになり、有髪の婦女子がこれに取っ て変わり、有名なお杉お玉の出現見ると言われる。文学上、お玉の名が初見さ れるのは、寛文12年(1673)刊「貝おほひ」、お杉お玉両名の名が現れ るのが、天和元年(1681)刊「乱曲揃」、元禄6年(1694)刊「京大 阪茶屋名寄」、元禄7年(1655)刊「西鶴織留」、宝永5年(1709) 刊「けいせい反魂香」などに、間の山節又は伊勢節のことが記載されており、  この頃に間の山節が流行していたと考えられる。

 一方、伊勢の古市の風俗を記載した「美景蒔絵松」と言う本が宝永5年に刊 行されてはいるが、一言も間の山節の名が見あたらないのが不可思議である。 唄念仏や彦惣踊りなどが流行していたことなどが見られ、二上がり、三下が りには本調子でもって当時流行していた唄を唄っていたことが記載されている。 当時に唄われていた歌詞は、音数律的には七五調で内容は、念仏調の哀調を帯 びたものである。
 昭和54年7月刊「瑞垣」の中に、朝野健二氏「伊勢音頭覚書」があり、こ の中で、「寛延以後になると間の山節も同じ旋律を繰り返す当世流の調子に変 わっていたといわれる。」と書いてあり、寛政9年刊の「伊勢参宮名所図絵」 の間の山所では「謡歌はうせて何をうたうともわきまえがたし云々」とあり、 同じく古市の所では、間の山節に取って変わり、河崎音頭が流行して、これを 伊勢音頭と称し「調は普通を越えたり云々」となり、又、享和2年(1802) 頃に古市に来た滝澤馬琴も、間の山で唄われたものは「ととさわがしきもの」 と記載している。このような事から、寛延頃から享和にかけて念仏調の哀調を 帯びたものから「さわがしきもの」に即ち、間の山節が当世流の調子に変わっ ていった。

 文政から天保頃に描かれた「浮世名異女図絵」を思い出してみると、お杉お 玉が描かれた浮世絵の中に当時、上方から名古屋へ又、江戸へ流行していった 伊勢音頭住吉踊りの歌詞が書かれていることからして当時、間の山では、伊勢 音頭と称されていた河崎音頭と二上り伊勢音頭が同居していたことが伺い知れ る。このように間の山で歌われた歌は、長き時代に渡って形態を変えかつ、盛 衰を繰り返しながら明治20年頃まで続いていた。 

 3、河崎音頭 

 河崎音頭は別名伊勢音頭と称されている程、有名な音頭である。度会貞多著「神境秘事談」にあるように、この音頭は享保の頃、伊勢は山田の御師である 奥山桃雲という人が地元の盆踊りを参考にして改作し、河崎音頭として毎年、 新作を発表し、世に出したところ大いに地元で受け、その人気故に遊里の古市 でも座敷に乗せたところ、遊客に受け一方では、地元の盆踊りに取り入れられ 昭和初期まで盛んに歌い踊られてきた。この音頭が有名になったのは、享保1 7年(1733)から元文3年(1739)にかけて名古屋に遊郭が置かれた 際に、古市の廊主達が出店を出しそこで、伊勢で流行していた河崎音頭を座敷 に乗せたところ、大いに遊客に受けて陸路や海路によって全国に広まり有名に なった。
古市での伊勢音頭の様子 その時、河崎音頭として正確に呼ばれて普及した場合と、伊勢の河崎音頭と 呼ぶのがわずらわしく,いい縮めて伊勢音頭と称し普及した場合とがあった。 しかし、より一層この音頭の名を高めたのは寛政8年(1796)に古市で生 じた油屋騒動を「伊勢音頭恋寝刀」という題目で歌舞伎芝居に乗せたところ、 これが大当たりして、全国的に伊勢音頭の名が広まったと云われている。

 4、古市音頭

 古市音頭は、一説には寛延の頃に、備前屋の主人が歌と踊りを新しく仕組み 廓の舞台に乗せたのが始まりで、それ以後、各楼廊ごとに音頭が作られたが、 いずれも長歌の為かおもしろくなかったのか、一般には普及しなかったようで ある。また、一説には古市音頭は河崎音頭から派生したものであり、各楼廊で 音頭歌が決まっていたことが「御笑草諸国の歌」という本に載っている。 
 例えば、杉本屋は「菊の寿」、柏屋「松風村雨」、油屋「乗合盃」などが、代 表的な音頭歌として記載されている。
 以上のことから伊勢の地ににて歌われた種々の歌、すなわち相の山節、伊勢 踊り、河崎音頭、古市音頭などの歌も他国の人から見ると伊勢の音頭と認識し 伊勢音頭と総称したことから、この音頭の概念に混乱が生じ、その結果、長き に亘って伊勢音頭の実態が明快出来ず現在に至っている。
 例えば、河崎音頭が伊勢音頭の源であるという説が真しなやかに通説となっ ていることからして分かる。 
 さて、最後に江戸時代から伊勢信仰の隆盛と伴に全国的に歌われた伊勢音頭 も明治22年の御遷宮の年より数年の間、流行した後、激しい時代の流れに巻 き込まれ徐々に衰退していった。昭和初期の伊勢では伊勢音頭を知る人も少な くなり、芸伎でさえもまともに歌える人が居ない状態になった。それを憂い、 伊勢音頭の保存の必要性に気づいた医師畑嘉聞によって伊勢音頭の会が創られ 昭和8年には、伊勢音頭をレコードに吹き込み、各地で行われる全国民謡大会 に出演し、地元の伊勢おおまつりに於いて伊勢音頭パレードを行い、市内はも とより全国にその普及を計ったが、流行の萌し途中にて第二次世界大戦が起こり 戦後の復興も目処がついた頃、新民謡ブームが全国的に起こり始め、伊勢に於いて も、伊勢市観光協会の専務理事樋口鉄男氏、山田検番の主、河口芳広氏が従来の 伊勢音頭に手を加え、当世風の「新編伊勢音頭」を作り、その普及に努力を重 ねましたが,時流に乗り切れず一部の伊勢音頭愛好家達によって歌い踊られるの みであり、全市民普及するまでにいたらなかった。

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最終更新日 : 03/02/22